Club Silencio

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【ネタバレ感想】『ザ・スクエア 思いやりの聖域』評

現代美術館のキュレーターであるクリスティアン。ある日、出勤していると、広場である女性が「助けて!殺される!」と喚いている。リューベン・オストルンド監督が「1973年にプリンストンで行われた”善きサマリア人の実験”を引用したかった」と言うように、集団心理によって”傍観者効果”が働き、何人かは反応して振り返るものの、結局は見て見ぬふり。無論クリスティアンもその一人であった。

 

けれどもクリスティアンは、付近にいたある男性の呼びかけによって、”傍観者効果”に於ける”多元的無知”を打破することで女性を助ける。しかし、加害者と思われる突進してくる男はランニング中でしかなく、被害者の喚いていた女さえ、忽然と姿を消す。つまり、事件は一件落着。だが、ひと時の”ヘルパーズ・ハイ”に陥るクリスティアンが、我に返った時にはすでに手遅れだった。

 

携帯と財布と形見のカフスボタンがない!

そう、クリスティアンは新手のスリにあってしまったのだ。

 

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彼らの親切心を逆手にとったスリというアーティスティックな行為は、クリスティアンが展示する「ザ・スクエア」というアート作品と呼応するだろう。その「ザ・スクエア」の紹介文を引用したい。 

 

The Square is a sanctuary of trust and caring.

Within its boundaries,

we all share equal rights and obligations.

 

ザ・スクエア”は〈信頼と思いやりの聖域〉です

この中では誰もが平等の権利と義務を持っています

この中にいる人が困っていたら それが誰であれ

あなたはその人の手助けをしなくてはなりません 

 

クリスティアンの美術館の入り口にはこんな装置がある。訪問客は2つのドアのどちらかを選択しなければならない。"人を信用する"のか、"人を信用しない"のか。右は信用する人、左はそうでない人。ほとんどの訪問客が右を選ぶが、その後、携帯と財布を置くように求められると躊躇する。 そのような自己矛盾からなるモラルジレンマの葛藤。それは訪問客に限らずとも、キュレーターであるクリスティアン自身が直面する問題でもある。

 

それは、盗まれた携帯のGPSから探知し、犯人の団地を突き止めたクリスティアンが、部下の提案で全戸に脅迫状を送る。かくして(犯罪行為によって!)盗まれた物は返ってくるが、脅迫状によって傷ついた少年がクリスティアンにしつこく謝罪を求めに来るようになる。さっさと軽くあしらう中で、「ザ・スクエア」の宣伝活動の方法(動画内で孤児の金髪少女を爆死させる!)が炎上する。

 

そう、「ザ・スクエア」で〈信頼と思いやり〉を謳う中で、クリスティアン自身こそが最も〈信頼と思いやり〉に欠けている人間であるのだ。その信念と行動の差異というモラルジレンマの葛藤がクリスティアンを苦しめる。という事は、その差異を埋めること、つまり、クリスティアンが”あるべき行動”を取ることこそ、父娘という関係性にも集約されるが、クリスティアンの幸せであると共に、「ザ・スクエア」という〈信頼と思いやり〉のアートを完成させることに繋がるだろう。また逆説的に考えれば、”あるべき行動”である〈信頼と思いやり〉という人道主義の価値的な”人間の営み”こそ、崇高な芸術であると言えるだろう。

  

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リューベン・オストルンド監督と言えば、『フレンチアルプスで起きたこと』の監督であることを思い返せば、スリ女性の喚きも、トークイベントでの神経障害の男性も、会議中の赤ちゃんも、謝罪を求める少年も、ホームレスの物乞いも、そして晩餐会の野生化した人間のパフォーマンス(?)も、悪意と皮肉、毒とユーモア、不快と愉快というアンビバレントのバランスが絶妙。そこには不条理に笑う観客と思いやりの無さに悩む観客が、同時に、スクリーン(四角形)という「ザ・スクエア」に座っている。

 

余談として、”晩餐会の野生化した人間”について言及したい。

パフォーマンス(?)としたのも、彼はパフォーマンスとして野生化しているのではなく、既に野生化してしまった人間であるように見えるのだ。

 

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 言葉が通じないというよりは、”野生化してしまった”様子を見ると、元はあったはずの言語が破壊されてしまっているように思える。それはトリスタン・ツァラダダイズム的であるとも言える。つまり、言語破壊装置として、彼の言葉は”無意味”の状態となってしまったのだ。意味の外へと向かうダダイズムについて、塚原史さんの言葉を借りれば、「ダダは、さまざまな人間的営みのうちに存在していた、結局は狂気かトランス状態にたどりつくほかはない、非理性的なものの表出の諸形態を、それらが、すでに人びとの視野から消え、あるいは、遠い場所に閉じ込められた時点で、再び演じて見せたのだ」からして、つまり、本評で定義した芸術的とも言える”人間の営み”=〈信頼と思いやり〉に存在していた、非理性的なものの表出の諸形態として、”晩餐会の野生化した人間”はいるのだろう。

 

やはり、それはクリスティアンの顛末に他ならず、例えば、アンとのコンドーム漫才からも読めるが、モラルジレンマの葛藤からなる愚行の数々に気付いていく様は、言語が破壊されるようにも見える。決定的とも言える少年の安否がどうであれ、この機を境にクリスティアンは野生化していくのだろう。それはある種ホームレスとも取れる。はたまたあの喚く女性を振り返えって見れば、あのキーキー声はダダイズム的な言語破壊による無意味化された、〈信頼と思いやり〉が欠けたクリスティアンへの警鐘であったはずだ。

 

携帯や財布や形見のカフスボタンより、大事なものを失っていることに気付けなかったのか…

 

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