Club Silencio

夢と現実の魔境からお届け

【ネタバレ感想】『ミスミソウ』評 超暴力による開眼 混沌の中に三角草(雪割草)を見るということ

ミスミソウ』に於ける超暴力(アルトラ)の原因というのは、すべては春花にあると言えるだろう。なぜなら幼馴染として過ごしてきた連帯の中に、彼女は「よそ者」として侵すことでこの町は崩壊していくからだ。

 

そこでもうひとつ言えるのは、”閉鎖的な田舎町”であるということだ。

「娯楽は皆無」と嘆かれるように、この町にとって、春花という華やかな異物が現れるということは、彼らにとって、何よりの歓びであると言えるだろう。それは逆説的に、これまで”閉鎖的な田舎町”で感じていた絶望や鬱憤というものが、彼女に注がれるというのは必然的であるとも言える。 

 

内藤瑛亮監督は"99年の絶望感"と設定したが、『ミスミソウ』は現代的である。それはこのディスコミュニケーションの時代こそが、”閉鎖的な田舎町”と同等に思えるからだ。世界に対する絶望と鬱憤が溜まり続けるが故に、現代は混沌(カオス)をより一層と深めていく。また彼の言う「被害者が人間性を失い、加害者が人間性を浮かび上がらせる」構成からなる自由意志の相対性への問いは、まさに単純には割り切れない善悪への追求として普遍性を備えるだろう。

 

f:id:atsuki485711:20180407192249j:plain

 

ミスミソウ』の超暴力(アルトラ)は、眼に始まり、眼に終わる。

映画に於ける、眼を破壊することについて『アンダルシアの犬』へ寄せたジャン・ヴィゴの言葉を引用したい。

 

(『アンダルシアの犬』冒頭では眼が裂かれる)私たちがスクリーンの上の剃刀で真っ二つに切り裂かれる女の眼の映像に耐えきれないとすれば、地上のだらけた人間たちが犯したさまざまな怪物性を私たちに受け入れさせる私たちの無気力こそが、重大な試練にさらされているのである。それは、この映画で言うなれば習慣の眼とは別の、もう一つの眼で見ることが必要であることを確信させる 

 

つまり、眼を破壊するということは、もう一つの眼を開かせるということであるのだ。『ミスミソウ』の眼を刺すという行為もそれと同じではないか!

 

f:id:atsuki485711:20180407191936j:plain

 

ミスミソウ』に答えはない。映画版の脚色により、妙子が生き残ることで更に迷い込んでいくだろう。しかし、『ミスミソウ』の超暴力(アルトラ)は、観客へ開眼の必要性を確信させるものでしかない。

 

現代の絶望と鬱憤の混沌(カオス)をどう生きるか?という重大な試練の前にある。

 

最後に三角草(雪割草)の花言葉を…

 

「自信と信頼」

 

我々はそのような世界を、妙子と共に、もう一つの眼で見ることができる日は来るのだろうか?


まだカーテンの先は見えない…