Club Silencio

夢と現実の魔境からお届け

【ネタバレ感想】『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』評 媒体として「ここではないどこか」へと…

 

Ground control to Major Tom

地上管制よりトム少佐へ   

 

”千の惑星の都”と称されるアルファ宇宙ステーションの発展と共に流れるデヴィッド・ボウイ「Space Oddity」の一節。曲自体に詩的な物語があるのはさて置き、トム少佐をヴァレリアン少佐と読んでもいいだろう。であるのならば、地上管制は『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』を鑑賞する我々と取れるのか。

 

 同曲では発射成功後、少佐はこう返答する。

 

This is Major Tom to Ground Control

こちらトム少佐より地上管制へ

I’m stepping through the door

ドアを開けて外に出たところだ

And I’m floating in a most peculiar way

滑るようにして道を歩いている なんとも奇妙な感覚だ

And the stars look very different today

たくさんの星が見える 地上にいた頃とはまったく別物だよ

For here am I sitting in a tin can

いまここで わたしはブリキ缶に腰をかけている

Far above the world

世界のはるか上にいる

Planet Earth is blue and there’s nothing I can do

青い地球を眺めている しかし できることはもう何もない

Though I’m past one hundred thousand miles

わたしは100万マイルの彼方に来てしまった

I’m feeling very still

なのにとても冷静でいられるんだ

And I think my spaceship knows which way to go

きっとこの宇宙船で向かうべきところを知っているのだろう

Tell my wife I love her very much she knows

妻に伝えてくれないか ”愛している”と 彼女も分かってくれる

 

参照:https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/kagegisu-the-writer/entry-12289445174.html 

 

そして、少佐と連絡が途絶える。

つまり、少佐は「ここではないどこか」へと行ってしまったのだ。

 

少佐と地上管制の関係から、我々も『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』を媒体として、「ここではないどこか」を感じることができる。パール人は絶命する際に、自身のエネルギーを開放することで「ここではないどこか」の、相性の合う者に想いを託す。つまり、そのコネクトしたヴァレリアンの言動というのは、ある種の”運命”であるのだ。もちろん、それを媒体とする我々にしてみても”運命”だと言えるだろう。

 

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高橋ヨシキさんの言葉を借りれば、「薄汚れて手垢にまみれた”リアリズム”などファックオフだ、なぜなら(映画という)色彩は歓びだからだ!」

 

現実なんてクソ喰らえ!

我々は夢を、映画を媒介して見るのだ。 『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』はその極北だと言える。「シャブをキメたSW」「この映画の前ではGotGが小津安二郎に見える」という形容も手に余るような夢見心地のヴィジュアル。まさに目に映るすべてのことが歓びだと感じる。もうこの夢から帰りたくない。運命なのだから我々の故郷は”千の惑星の都”でしかないはず。映画は夢であり、その夢が運命であるべきだ。

 

~ 『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』鑑賞後~

 

こちらatsukiより読者へ

席を立ち映画館を出たところだ

滑るようにして道を歩いている なんとも奇妙な感覚だ

たくさんの夢が見える 観る前とはまったく別物だよ

いまここで わたしは家で腰をかけている

深い夢の中にいる

 

結果として、『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』は見るに堪えない。

なぜなら、現実があまりにも辛く感じてしまえるからだ。

 

酒を飲むように、シャブをキメるように、『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』を観よう!!

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p.s.

「Space Oddity」は連絡が途切れた少佐の言葉で終わる。

 

And I'm fioating around my tin can

いまわたしはブリキ缶のまわりを漂っている

Far above the Moon

月のはるか上

Planet Earth is bule

青い地球を眺めている

And there's nothing I can do

わたしにできることはもう何もない 

 

恐らく少佐は宇宙に身を投げたのだろうか。デヴィッド・ボウイの「Blackstar」の冒頭には少佐らしき死体が見えることからも伺えるだろう。そんな少佐は「もう何もできることはない」と繰り返すが、先述の一節にある通り、彼は妻を愛することをしているではないか。『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』のラストも、ヴァレリアンたちの宇宙船が漂う。何もできないのかもしれない。しかし、愛し合うことで、彼らは(ハネムーンとしての!)美しいビーチへたどり着くことを信じてるではないか。

 

つまり、少佐と地上管制、パール人とヴァレリアン、そして、『ヴァレリアン 千の惑星の救世主』と観客と、これは媒体としての「ここではないどこか」への継承に思える。だからこそ、次は夢見た我々がヴァレリアンとローレリーヌをビーチという「ここではないどこか」へ送り届けてあげるべきだ。