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【ネタバレ感想】『マザー!』評 機能として還元し続ける楽園

マザー!』が聖書を下敷きにしているのなら…

 

彼(ハビエル・バルデム)=神

母親(ジェニファー・ローレンス)=地球

男性(エド・ハリス)=アダム

女性(ミシェル・ファイファー)=イブ

長男(ドーナル・グリーソン)=カイン

弟(ブライアン・グリーソン)=アベル

 

となるのか。因みに、ドーナル・グリーソンの実弟がブライアン・グリーソンであるからこそ、リアリテイの強度は高い。

いやはや言わずもがな、あのクリスタルこそ禁断の果実であり、また母親(地球)は「楽園を作りたい」と言う。つまり、それはまさしくエデンの園であると言えるだろう。そして、そのクリスタル(禁断の果実)は壊され、男性と女性(アダムとイブ)はエデンの園を追放される。故に、奇しくもと言うべきか、長男(カイン)は弟(アベル)を殺してしまうのだ。加えて、クリスタル(禁断の果実)をメタファーとして読むのならば、やはり性と原罪と取れるからこそ、結果として母親と彼はセックスをし、妊娠する。

 

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すなわち、それは母親と彼の楽園(エデンの園)と言えるだろう。

ここで余談だが、楽園(エデンの園)ないし、ユートピアというものは「規則的」「反復的」「合理的」なものであるのだ。規則性、反復性、合理性があり、その都市の造形(母親と彼の家も!)や生活までもがそうである。『マザー!』を見返して観ると、母親は家をDIY、彼は小説を書き続けるから規則的、反復的である。また不条理にも思える来客や襲撃でさえ、映画全体を無限ループとして捉えれば、全て合理的なものであると言えるだろう。

 

しかし、ユートピアと聞けば良いように思えるかも知れないが、実際はそうではない。確かに理想郷ではあるが、全てということは時間までもが規則的、反復的、合理的になる。つまり、人生が時間割され、人間が”機能”として還元されることでユートピアは動いている。それはまるで時計のようであり、ユートピアに於いて人間は、時を刻む機能でしかない。またそのように人間が記号的になると、ユートピアには一個人の個性が存在しなくなる。故に、混じりけがないからこそ、理想だと言えるのか。

 

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マザー!』が問題視されるのは、赤子を食したり、女性が焼死したり、はたまたそうさせた宗教やら、その後の彼の行動にあるだろう。そこから『マザー!』が性差を描こうが、環境問題を描こうがどうでもいい。重要なのは、母親と彼が無限ループによってユートピアに生き続けることである。その非歴史的行動、つまり、まさにユートピアこそ迷宮であるのだ。そこへ変化を起こすには、やはり非規則的、非反復的、非合理的なことがなくてはならない。「刺激が欲しい」という彼はごもっともで、それないし、家を修復するよりも建て替えたほうがいいという女性も正しい。

 

正直、不条理な来客や襲撃は笑えるコメディとして描かれている(ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』を踏襲するように)。つまり、『マザー!』の恐怖の側面、はたや最も問題視するべきなのは、ユートピアという迷宮の出口がないことである。登場人物の名前も見ても記号的であるのはさて置き、弟は長男に殺され、子供を食われた母親は焼死することで、この『マザー!』というユートピアの機能として還元しなくてはならない。別人に変わることからも、犠牲を払い続けてると読めるだろう。

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 理想郷であるにも関わらず、人間を機能として還元し続ける。

 

しかし、『ブラック・スワン』以前のダーレン・アロノフスキー作品こそ、反ユートピア的であり、シュルレアリスティックな「向こう側」(良し悪しは別として)たどり着いていたのに…