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【ネタバレ感想】『聖なる鹿殺し』評 ”予定された”ような幸せの不条理劇

籠の中の乙女』に於ける少女は、夜な夜なVHSを観た。

その抑圧的環境下(純粋培養する親の元)から逃げ出すために、彼女は映画の力を借りる。フラッシュダンスを踊り、プールで鮫となり、シャドウボクシングで犬歯を折る。それは決して特別な力ではない。親には教わらなかったことを映画で学んだだけであるのだから。

 

まさしく『聖なる鹿殺し』のマーティンは、「アウリスのイピゲネイア」という神話の力を借りて、父殺しの復讐譚を綴る。つまり、手足の麻痺も、食事の拒否も、血涙も、そして死を与えるということも、決して特別な力ではないのである。神話から、神の力を学んだだけであるのだから。

 

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  • 心臓外科医という支配者

マーティンは”父親が好きだった映画”として、スティーブンに『恋はデジャ・ヴ』を観せる。ここも映画を介して、あの永劫回帰的な問いをスティーブンに問いかけると読めるだろう。

 

要約すれば、スティーブンは彼自身という人間を根本から変えなくてはならないのだ。それは妻・アナとの”全身麻酔”と名付けたセックスという行為に見える。つまり、これはヨルゴス・ランティモスの「支配」というテーマに通ずるのか。例えば『籠の中の乙女』の家族や父親、『ロブスター』に於ける世界そのものや主人公にも伺える。そして、スティーブンに顕著に見受けられたのは、マーティンの母親に指を舐められたところだ。普段は全身麻酔と称して、相手の自由を奪ってから事を済ますのだが、”指を舐められる”という被支配的体験に嫌悪感を示す。なぜなら、それは彼の哲学に於いて、支配されるという事はあってはならないことであるからだ。だからこそ、人間の源である心臓を専門とした外科医という職は、彼の性に合っているのだろう。

 

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  • あくまで予定された結末

故に、神の力を授かったマーティンという怪物の言動、精神的疾患という心の病など、スティーブンが支配できない(彼に取っての!)不条理に、彼は身ぐるみを剥がされていく。

 

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それはコリン・ファレルの言葉を借りれば、「中流階級の生活の陳腐さを非難し、またそれに驕った人間の崩壊」に”予定される”ようなスティーブンのカルマが、マーティンというメタファー(彼自身が比喩や象徴だと言っていた)と対峙する事で、まさに”究極の選択”を迫られる。

 

因みに、あのロシアンルーレットでボブが生贄となったのも”予定された”ようだと読みたい。それはマーティンがボブに放った「父親(スティーブン)がいなければ、その代わりか」という言葉を聞いたからだ。これはエディプスコンプレックス的な同一化、はたや「お前のペニスを切り取る」という形容を行動に移したと取れる。スティーブンが娘を、アナが息子を(特に!)愛するのもそうだ。

 

だから一発目は娘・キムに、二発目はアナに向けられるが当たらず、三発目に”予定された”ようにボブを打ち抜く。しかも、正確に、心臓に当たっているではないか。

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だから『聖なる鹿殺し』はマーティンによる”予定された”不条理劇であるのだ。つまり、おかしな話だが不条理ではない。道理はあるのだ。先述の通り、マーティンの力さえ、不思議なものではないと思っている。

 

この”予定された”不条理劇が何よりも怖いのは、彼自身のカルマを子供に負わせようとし、それにアナも同意するところにある。最良の選択はマーティンの母親に指を舐めさせ続ける事だったかもしれない。家族を裏切ることにはなるが、誰も死ぬことはなかっただろう。しかし、それは哲学に反するが故に考えもしない。

 

目には目を、歯には歯を、マーティンがプレゼントにはプレゼントで返すように、最後にはマーティンの目の前でポテトを最初に食べて、見せつける。

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しかし、この顔。

 

あくまで”予定された”結末…

それはマーティンの正義とスティーブンの哲学が補完し合ったこれ以上ない幸せか。

 

ボブという犠牲、これこそ聖なる鹿殺しの意味か。