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【ネタバレ感想】『ぼくの名前はズッキーニ』評 風がぼくたちを運ぶほど詩的なリアリズム

  • 風がぼくたちを運ぶ

ソフィー・ハンガーは歌う。

 

Le vent nous portera.

(風がぼくたちを運ぶよ) 

 

Le vent nous portera

Le vent nous portera

  • Sophie Hunger
  • ロック
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

  

時を同じくして、ズッキーニは凧を揚げる。

そう、風に運ばれるぼくたちと凧は同じであるのだ。つまり『ぼくの名前はズッキーニ』に於けるこの凧は、子供の(特にズッキーニ自身の)象徴である。そこで凧の裏面に注目したい。表面には父親の似顔絵、裏面には父親が去っていた若い雌鳥(愛人)が描かれていた。凧は風によって揚がることと、ソフィー・ハンガーの歌にあるように、凧を揚げることが子供たちの成長と重なる。冒頭・フォンテーヌ園・ラストと凧を揚げると同時に、子供たちに転機が訪れる。

 

ラストで揚げる凧の裏には、父親が去っていった若い雌鳥(愛人)の絵に重ね、”愛の子”と称されたぼくたちの集合写真が貼られている。その集合写真が撮られた経緯を思い返せば、ズッキーニが新しい父親に出会った時であったはずだ。若い雌鳥(愛人)の上に愛の子を、そうソフィー・ハンガーが歌ったように、新たな愛の元へLe vent nous portera/風がぼくたちを運んだのではないだろうか

 

  •  詩的リアリズム

これは笑い、泣き、恋をした少年少女の青春と成長を、「Le vent nous portera/風がぼくたちを運ぶよ」というサンボリスムで詩的に歌ってしまったのだ。なんと美しいのか!IndieWireが「トリュフォーも気に入るに違いない!」と評したのも頷けるように、いやそれどころか、ストップモーション・アニメだからこそ紡げる繊細なリアリズムで彼が撮ってしまったような仕上がりになっている。

 

監督のクロード・バラスは言う。

 

私は、優しくてポエティカルな成長物語であるジル・パリスの原作「Autobiographie d`unecourgette」の虜になりました。その物語と文体は、私を子ども時代に連れ戻してくれます。(中略)初めて感じた”心のときめき”を思い出さしてくれました。 

 

またトリュフォーは「私は自分の幼いころの、そして青春期の夢を描き出すために映画を撮っているのだ。そしてそれは自分自身のためでもあるし、できれば人のためにもなればと思う」と言う。つまり、まさに”映画的記憶”のあこがれが混在した装置として、子ども時代の、そして青春期の夢に見た”心のときめき”を呼び醒ますのだ。

 

 そう言えば、トリュフォーの『大人は判ってくれない』のラストではジャン=ピエール・レオが風に背中を押されるように走り出したのを思い出す。ここで吹く風は外へ、外へと運ぶものだったが、『ぼくの名前はズッキーニ』ではひと味違う。レオとズッキーニは同じく児童養護施設にいるわけだが、後者に吹く風は中へ、中へと運んでいく。つまり、”大人は判ってくれない”と思ったズッキーニが、逃げ出すのではなく新たな家族像を築いていくのだから!

 

そして、カミーユは嬉し涙を流す。いや、養子を取った大人まで泣いている。

 

あゝ、どこまで美しいのか。

ジョルジュ・フランジュが「詩的なものは現実のなかにある」と言ったように、現実問題をリアリズムで映し出すからこそ、詩的な”心のときめき”があるのだ。それは小説原作の物語が子ども時代の、そして青春期の夢まで映し出してしまうほどポエミーとなってしまう。

 

そうか!ズッキーニという愛称を本名にする、つまりズッキーニとしての人生を送るイカールこそ超一流の詩人であり、リアリストではないか。

 

いや、イカールではなく、彼の名前はズッキーニ。

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